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寛延2年の百姓一揆 その三

 

 すると百姓共は口々に願の趣を述べました。主な点は、

〇近年打ち続き凶作なので年貢の上納引きのばし

〇郡代、郡奉公の検見(現地調査)が良くないので役替えしてほしい。

〇その他、雑税免除等々の外、注目するのは、岩井田舎人(昨非)を百姓方へ引き渡せというものである。

岩井田は「戒石銘」の提唱者で藩政改革の功労者とも言われる儒学者である。その岩井田に百姓の苦労をさせよと言うのである。

 こうした要求に対し、20日朝8時に御教書(回答)が丹羽図書、成田監物(家老)の名で出され、内容は年貢半免、御用米金来年6月まで引延、末進浅米金も来年6月まで引き延ばしであった。

 これで安達郡内は一応の決着を見ました。

 安積郡では、山の内(現郡山市湖南町)5ヶ村から3000人余が蜂起して郡山へ押出し、如宝寺山を後に、観音堂を前に閧の声を上げました。これに郡山組・片平組の百姓も同調し、御城下へ押寄せて、願が叶わなければ町家へ火を放ち、焼払って一同討死すると言って、二本松を目ざして1万8千人余が郡山を出発しました。道々の酒屋や米屋に立寄り、酒を飲み、傍若無人の振舞でした。日和田、高倉で食事をし、吹上(仁井田村)、三本松(荒井村)に陣を取ったと言われています。12月20日午の刻(昼12時ごろ)から名主・組頭からの注進が相つぎ、城中は騒然となる。今回の強訴は糠沢組からの内通があったとのことで、野田氏(郡山代官か?)が早馬で郡山へ行き、名主宅で人別帳で頭取吟味(首謀者吟味?)をしたが村には1人もおらず、手がかり無く帰りました。

(原稿提供 相原秀郎氏)

第236回門前市広告より原文のまま掲載