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寛延2年の百姓一揆 その一

 

 『年代記』に寛延2年(1749年)の項に、「三春百姓騒動御物成半免に成」(三春の百姓が騒動を起こし、年貢が半分になった)との記載があり、続いてこの年は大不作で、近くの国々の百姓が残らず騒動を起こしたとあります。この年の前半の記載に、5月の日照りにて殿様が「雨乞い」を行ったとあります。二本松領も12月17日は東安達3万石大平村に相詰とあり、二本松領の農民一揆の始まりの記載があります。県内では寛延2年から2年にかけて農民一揆が多発しました。寛延2年9月に桑折代官領の伊達郡・信夫郡68か村の1万数千人が参加し、12月に代官所を襲いました。2年11月から3年1月にかけては塙代官領の東白川郡11か村で、2年12月12日から17日にかけては三春藩で「領内の惣百姓共不残(ノコラズ)願之筋、御城下へ相詰メ」と言う事になり、2年12月13日には石川郡内の越後高田藩の分領で。2年12月21日から27日にかけては会津藩領耶麻郡、大沼郡、北会津郡の3万人が、2年12月27日にかけては守山藩領7か村(郡山市)で騒動が起きています。二本松領でも寛延2年の12月14日西新殿村の西泉寺に集まり、「来年6月までの御用米延納の願書」を3通したためました。村役人が取次がなかった場合は直接二本松へ起訴しようと企てました。東新殿では福田寺に集まって延穀願書(年貢の先のばし)連判帳を作りました。また2人の人物を茂原村へ送り、同調をうながし、問合せました。12月17日午の刻(昼12時頃)田沢、茂原村の農民が百目木村に押寄せ「閧の声」を上げました。これに百目木村の農民も同調しました。(以上の村々は旧岩代町地区)さらに山木屋村(川俣町)針道村、南戸沢村、北戸沢村、西新殿村、西木幡村、上太田村、杉沢村の農民も加わり、3700人余りが小浜に集まりました。町内ではなく、付近の山などに居たと言います。

(原稿提供 相原秀郎氏)

第234回門前市広告より原文のまま掲載