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「預領」その四

 

 この事件についての記録は、二本松では見当たりませんが、『年代記』には寛保2年の項に「二本松左京様信夫御預五万石御取上二成申候」の記載があります。

 ※高寛公は、丹羽長秀公の6男長次の子孫で、旗本5000石江戸北町奉公などを務めた家柄で、長道の子。江戸生まれ江戸育ちでした。二本松では名君を言われていますが、このような事件を起こしていました。

 ※『年代記』領内の稲沢村(本宮市白沢)で代々書き続けたれ、天正元年(1576年)~安政4年(1857年)の記録で、様々なことが記されています。

 二本松藩にはもう一回「預領」がありました。

 安政5年(1858年6月)藩は幕府から富津砲台の警備を命じられました。この砲台は、文化5年(1808年)に外国船の来航が多くなったため江戸湾を守るために築かれた砲台の一つで、現在の千葉県富津市(アクアラインの拠点)にありました。

 二本松藩は9月に、家老丹羽富穀を始め、兵400人弱、大砲10門を派遣しました。

 この時に、富津周辺31ヶ村1万1000石が「預領」となりました。藩はこの地を支配するために、領内の手慣れた名主を2名ずつ「郡方手付(役名)」に任命して毎年派遣しました。これらの人々は、詳細な日記と写生画を残しています。この地は二本松領に比べて人口も多く(23900人余)、豊かな土地でした。年貢は幕府で、小物成などの雑税(米352石と金869両)が二本松藩の収入で、他に領民から農兵110人を徴集しました。

藩士らは1年交代で、慶応3年(1867年)まで続きました。

(原稿提供 相原秀郎氏)

第233回門前市広告より原文のまま掲載