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「預領」その三

 

 その事件について、会津藩の『家世実記』(かせいじっき)には、寛保元年(1741年)7月10日(近くの領地)二本松で事件があったというので、その内容を江戸へ申し上げました。「二本松で事件があた」というので、その様子を探るため、夜廻り(役職)赤羽伊太夫・貝結儀左衛門を間者(スパイ)として派遣したところ、帰って来て、このような報告がありました。二本松城主丹羽左京太夫様(高寛公は、元来御養子で今年23才、嫡男(後継)百助様(後の高庸公)は13才、その外次男、娘もあるとの事です。そういったところ、このたび参勤交代で二本松に帰る際に、江戸から踊子4人をつれて来られたため、6月23日、御家老成田弥左衛門・大谷彦十郎・丹羽図書・和田弥市左衛門・丹羽勘左衛門が相談し、踊り子らを町宿に置いて城内に入れる事を止めました。これについて、成田弥左衛門が御承知下さるよう高寛公に申し上げましたが、高寛公は腹を立てて、「切腹せよ」と言い出しました。同24日、殿の前に出て、側に詰め寄っていろいろと申し上げたところ、高寛公は腹を立て、脇差で三太刀切り付けました。周辺の者が取り押さえ、高寛公の刀を取り上げ、無刀で別な部屋へ移して詰合の藩士が厳しく番をしました。弥左衛門は笰(カゴか?)にて退出。家族の者へ訳を話す間もなく死去しました。当日城にいた藩士は城から帰宅しませんでした。高寛公の御供で国元へ帰っていた御側役の水野良右衛門は早打(馬か?)で江戸へ、その後、早飛脚が江戸との間を激しく上下していました。弥左衛門の外にも手負の者があったかは不明としています。

 25日には江戸からつれてきた踊子達も江戸へ帰りの途に着きました。

 

(原稿提供 相原秀郎氏)

第232回門前市広告より原文のまま掲載