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「預領」その二

 

 二本松には川俣領民165人が夫食願いで二本松の本町まで逃げてきました。その他、福島領などにも逃げ出した農民がいたようです。二本松藩では、夫食米は貸し渡すから村へ帰るように説得しましたが、農民らは、この事を幕府に申し立ててほしいと訴え、帰りませんでした。藩では城下を警備し、早飛脚で江戸の岡田家と幕閣へ報告しました。農民たちを本町の称念寺に収容するとともに、藩では、老中からの警固命令で、吉倉口、針道口、飯野口、内木幡口の4ヶ所に足軽組を率いた藩士を配置しました。

 4月4日岡田代官が江戸から二本松に到着すると、足軽組6組、目付、捕手らと医師4名を添えて、648名の藩兵が大森陣屋まで警護し、そのまま岡田代官が百姓共を吟味する間継続しました。死罪を含む多数の処分が行われ、享保15年(1730年)正月に結着を見ました。

 この年の6月、藩は信夫・伊達2郡のうち、5万石を預領とするように幕府から命を受け、代官を任命し、支配しました。これは寛保2年(1742年)まで13年ほど続きました。この打切りには、どうもある事件が関係していたと思われます。

 

(原稿提供 相原秀郎氏)

第231回門前市広告より原文のまま掲載