· 

「預領(あずかりりょう)」その一

 

 寛永20年(1623年)7月、丹羽光重公は白河から二本松への移封を命じられました。石高は白河と同じ10万700石のままです。この石高は表高と言い、格式みたいなものです。二本松領は実収入で11万石700石余りで、これを草高と言います。これが「本途物成」(ほんとものなり)と呼ばれる「本年貢」で、外に「小物成、浮役、高掛物等」の雑税がありました。その外に二本松藩には幕府預領が田村郡守山とその周辺26ヶ村1万5360石余りで、後に守山藩となる地域です。預領は「本年貢」が幕府に納めますが、「小物成」などの雑税は二本松藩の収入となります。二本松藩は、守山に陣屋を置き、代官を派遣して支配しました。これは延守6年(1729年)まで55年間続きました。

 享保14年(1729年)2月、信夫伊達両郡内の幕府領8万石の領内で一揆が起きました。前年の長雨と秋の暴風雨による大洪水で大被害が出ました。(二本松領内も同じで、1万8千石の被害と言われています。)各藩(二本松、福島等)では年貢の減免等を行いましたが、伊達郡川俣陣屋付の33ヶ村は、信夫郡大森陣屋付35ヶ村合計8万石を支配していた幕府代官岡田庄夫は、手代(部下)らに厳しく年貢の督促に当たらせ、享保8年に豊作年5ヶ年を基本として定めた年貢率に5%増で年貢を課したため、農民らは名主・組頭を代表に立て、定免(定められた年貢率)ではなく、検見取(現地調査に基づく年貢)に変えるように願い出ました。しかし拒否され、食用米や種籾まで年貢として上納させられ餓死寸前に追い込まれました。さらに村高100石につき10石の凶作に備えた備蓄を命じられ、翌14年2月にはその半分を上納するように命じられました。夫食(ふじき)(食用米)拝借と年貢減免の願いを代官所に強訴しましたが、聞き入れられないため、農民たちは、福島藩と二本松藩に願を出すという本来考えられない行動に出ました。

 

(原稿提供 相原秀郎氏)

第230回門前市広告より原文のまま掲載