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「城下図」その二

 

 この二家はいずれも、寛永4年2月(1627年)に加藤嘉明公(賤ヶ岳の七本槍の一人)が、四国松山から会津若松に40万石で移された時、嘉明公の娘婿松下茂綱公は下野国(栃木県)烏山2万8千石から二本松に安達郡5万石で移封され、嘉明公の三男明利公は三春3万石を領しました。ところが、この年の10月に松下重綱公が病没し、子の長綱公が家を継ぎました。しかし幕府は、長綱が幼いことを理由に、翌年2万石を減じ3万石で三春に移しました。その後長綱公も没し正保元年(1644年)松下家は廃絶になりました。減じられた2万石については、幕府領になったのか、会津の加藤家領になったのか、分かっていません。代わって二本松には明利公を三春より二本松3万石で移しました。明利公は今の石垣の二本松城を築きました。そうすると二本松には丹羽氏時代の3割の家臣が住んでいたことになりますので、当然城下図が作られたと思います。

 加藤明利公は寛永18年(1641年)3月に死去し、その子明勝公が継ぎましたが、幕府は生前の明利公の「行所よろしからず」として二本松3万石を没収し、3千石の旗本にしてしまいました。

 会津では、加藤家本家の加藤明成公が領土返上に到り、子の明友公は近江水口2万石の大名になりました。

※ 「賤ヶ岳の七本槍」とは羽柴秀吉と柴田勝家が「賤ヶ岳」で戦った時に功績のあった7人の家来を指しています。加藤清正、福島正則等で、加藤嘉明も含まれています。

※ 故水田荘介氏は二本松在住の画家で、長く教職に就かれ、私も大学時代「美学」の講座を受けました。

 

(原稿提供 相原秀郎氏)

第229回門前市広告より原文のまま掲載